2019年6月30日日曜日

ニューイングランドツアー日記 その8(ターシャ・テューダーの庭)









ランチ後、いよいよ、ターシャの家と庭へ!!! 

この頃には、セスさん、エイミーさんのほか、ウィンズローさん、セスさんの奥さんのマージョリーさん、エイミーさんの二人のお嬢さんも出てきてくださって、ツアーのみなさん、大興奮(≧▽≦) 


わかってはいても残念だったのは、ターシャの家も庭も、写真撮影が禁止されていること。荷物を全部預けてから、小道を通ってターシャの家へと向かいました。

家の中は、二手に分かれて、違う方向から見学し、最後に庭で合流するように計画されていました。

私はセスさんのご案内で、もう一つのグループはセスさんの奥様のマージョリーさんのご案内です。 

セスさんが日本語を話すとは聞いていましたが、案内も、流ちょうな日本語でスラスラとやられるのでびっくりしました。
ただ、説明を暗記しているだけのようです。単語はわかるようですが、日本語で質問してもわからない感じです。英語で質問するのですが、セスさんの頭の中は説明する日本語を思い出すのに必死のようで、ほぼ、一方的に説明をしてくださっている状態でした。

もちろん、それはとてもありがたいことなんです、でも聞きたいこともいっぱいあったんですが(^^; 

NHKの、ターシャの番組や、買ったDVDを何度も観ているので、家の中の様子はわかっていても、実際の奥行き感や、大きさ、生活感、ターシャの暮らした片りんなどは、行ってみて感じことがいろいろあります。

写真が撮れないので、みなさん、目をこらして、しっかりと記憶にインプットしていました(もちろん、私もです。とはいえ、どれだけ長く覚えていられるかは微妙なんですが…最近記憶力の低下が…)。 

セスさんはとても丁寧に、この部屋がこの絵に描かれたんだよ、とか、ターシャが電話のまわりの壁に忘れないようにメモしていたこととか、一つ一つの部屋やおいてあるものを説明してくれました。

一番の感動はやはり、ターシャのアトリエ。
ここで絵を描いていたんだな~と、そのまま残っている画材などを見ながら、しみじみと感傷に浸ったりして。

お亡くなりになった寝室は、両側に窓がある明るい部屋で、窓から庭を眺めたりもしていたのかな。亡くなる前一年くらいは、ほぼ寝たきりだったそうです…。 

よくテレビに出てくる入り口のポーチも、あ、ここで紅茶飲んでた!!花を飾ってた!!と、動いているターシャを思い出して、感動! 

オスの鶏が、立派な風体でこっちを見てました。いや~絵になる…。 

ターシャは1972年から、亡くなる2008年まで、36年間、ここに住み、たくさんの作品を世に送り出し、庭をつくりあげ、家族やお客様をもてなしていたんですね。 

家の中の見学が終わり、庭に出たころには雨があがりました。
今年は冬の寒さが長引いたらしく、ターシャが”輝きの季節”と表現した6月でも、花は、シャクナゲが咲いているくらいで、あとは全然、咲いていませんでした…((+_+)) 

期待していただけに、がっかりですが、天候や暑さ寒さは仕方がありませんね。 

ターシャは、自分が亡くなったら庭は自然に返そうと思う、と言っていたけれど、手入れをしなくなると庭というのはあっという間に野生になってしまうので、見かねた家族が少しずつ手は入れているようです。

でも、ここに住んでいるわけではないので毎日手入れはできないでしょう。
実際、全体的にボウボウの庭になっていたのはいなめません。 

これからこの家と庭がどうなっていくのか…。自然に返さず、今後もファンに公開していくのであれば、家族だけではおそらく無理なので、ナショナルトラストのような団体にお任せするのも一案なのではないかと、思ったりしました。 

せっかく、絵本の舞台にもなった、ターシャの思い入れが詰まった家と美しい庭があるのだから、ファンとしては、これを維持していってほしいと思うのです。
ビアトリクス・ポターのヒルトップ農場のように。 


家と庭の見学を終えたあとは、ショッピングタイム。
ランチのために出ていたテーブルはなくなり、中はスッキリ。
あれもこれも、どれも欲しい(笑)のを抑えて、みなさん、お気に入りをたくさんセレクトされていました。 


私は絵はがき、カード、種、そして紅茶。ターシャのウェルシュ・ブレンド。
ターシャが使っていた茶器のイラストがラベル♪♪これはお茶好きにはたまりません~。 

ターシャは、ガーデナーとして有名になる前に、絵本作家として成功しました。
絵本を自分で作るだけでなく、『マザーグース』や『秘密の花園』といった名作の挿画も手掛けました。『若草物語』の挿絵も描いているんですよね!それがまたとっても素敵なんです。 








福音館書店の「福音館古典童話シリーズ」です!
1985年の出版と、だいぶ古いので今は文庫になっていますが、この豪華本のカラーの表紙イラストが私のお気に入り。 

オルコットのオーチャード・ハウスで、以前はターシャの挿画の『若草物語』(英語版なので原題はLittle Womenですが)が売っていたそうですが、今はもうないようです。 


 
最後は事務所の前で記念撮影。サインにも、快く応じていただき、私もみなさんも、胸がいっぱい!大満足で帰路につきました。 

明日は、ターシャが好きでよく訪ねていたという歴史村「オールド・スターブリッジ・ビレッジ」を訪ねるので、今日は、近くのブラトルボロのホテルに泊まります。 

その前に、カバード・ブリッジCovered Bridge(屋根付きの橋)に立ち寄ってもらいました。
屋根付きの橋は、世界中にありますが、私はまだ実物を見たことがなかったんです。 

なぜ橋に屋根をつけたのかというと、初期の古い橋は木造だったので、その腐食や劣化を防ぐため、雨風や雪、凍結を防ぐため、景観のため、など、理由はいろいろです。

屋根をつけることで、寿命を80年以上伸ばせることもあるそう。 
映画『マディソン郡の橋』で、二人が出会うきっかけになったのが、屋根付きの橋。クリント・イーストウッド演じるカメラマンのロバートが、屋根付きの橋を写真に収めたくて訪れたものの、迷って、メリル・ストリープ演じるフランチェスカに道を尋ねたことから、二人の恋が始まります。 
フランチェスカには夫と子どもがおり、ロバートと一緒に飛び出してはいきませんでした。わずか4日間の燃える恋。アンハッピーエンドのお話ですが、気持ちの上では二人は結ばれているのでした。 


立ち寄ってもらったのは「クリーマリー・カバード・ブリッジCreamery Covered Bridge)」。1879年に建設され、修復を経て、現在に至ります。
ブラトルボロの町で、唯一、当時の姿をとどめる木製のカバードブリッジです。 





橋の長さは約24メートル、幅約6メートルで、車が通る部分と人が通る部分とがきちんと分かれています(危なくなくていいですね)。
車道部分の幅は約4・5メートル、人が通る部分は約1・5メートル。

ホテルに行く前に大きなスーパーへ立ち寄り、飲み物などを調達。
ここでもお土産品をゲット。スーパーって、楽しいですよね! 

夕食は、ホテルのすぐそばの中華レストランでいただきました。雨はすっかりやんでいました。 


 

旅行記は9へつづく


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2019年6月28日金曜日

ニューイングランドツアー日記 その7(ターシャ・テューダーの庭)








2019年6月13日(木)雨 

ターシャ・テューダーの庭を訪ねる日。願いは叶わず、この日は朝から雨でした。
が、これも神様のおはからい。現実大肯定。 

ボストンのあるマサチューセッツ州から、隣りのバーモント州へと向かいます。 

ニューイングランドというのは、アメリカ北東部の6州(メイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネティカット州)の総称なんだそうです。 

1614年ロンドンの商人数人が渡来し、そのときの船長ジョン・スミスが「ニューイングランド」と名づけたと、事典にあります。 

「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる清教徒たちがメイフラワー号でアメリカにたどり着いたのは1620年。それ以降、フランス人、ドイツ人なども移住しました。 

ターシャ・テューダーの庭は、ターシャが、住みたかったバーモント州で、縁あって1971年に購入した約30万坪(東京ドーム約20個分!)という広さの土地にあります。

家と納屋は、新たに建てるものの、古く見えるようにしてほしいというターシャの願いを聞いて、息子のセスさんが建てたんだそうです。

ターシャは、自身がなぜか惹かれる1830年代の暮らしを実践していたので、それに調和する古さのある家が欲しかったというのは納得できますね。 
通称「コーギー・コテッジ」。 

ウェルシュ・コーギーが主人公の絵本をターシャは何冊か出版していますが、自分の家でも飼っていたので、その名前をつけたんですね! 

そうすると、私の家は「ヨーキー・コテッジ」だわ♪♪
名前負けしているふつ~の家だけど(;^_^A 

途中、おトイレ休憩を入れて、バスで走ること約3時間。
地図で見るとそんなに時間がかかるようには見えませんが、アメリカって本当に広いなあと感じます。 
携帯電話の電波が通じないほどの山奥だと、ガイドさん。
住所は非公開らしく、以前ご案内したことがあるというガイドさんの記憶と、目印を書いたメモを頼りに、森の中をさまよい、なんとか、到着。

傘をさしたセスさんがわかりやすい場所で待っていてくださいました。 
バスを降りた途端、蚊がわあ~~~っと寄ってきます。雨なのでまだ少ないほうだとか。

私はプリンス・エドワード島での生活で、いくら北の極寒の地域でも、蚊はちゃんと生息していることは経験済み。
蚊よけスプレーを持参し、バスの中でみなさんにもお回ししました(笑) 

私たちのツアーは、ランチ込みでお願いしていました。
着いたのはお昼近くだったので、まずはランチ。
当初は外のベンチで、ということでしたが、雨で、肌寒かったためか、家の中にテーブルを用意してくださって、そこでいただけることに。ありがたい!! 


この建物は事務所だそうです。大勢のお客様が訪れた時に一旦集まってもらう場所が必要ですし、グッズを販売したりお手洗いなどの施設も必要なので、そのために建てられたようです。 





入ってすぐの薪ストーブのあるお部屋に現れたのは、エイミーさん!(ターシャの孫ウィンズローさんの奥様) 
NHKの番組で見て知っていても、実際に見ると本当にかわいい!!女優さんみたい!!  

サンドイッチやフルーツ、スイーツなどをたっぷり、用意してくださいました。
どれもとてもおいしかったです! 
グッズ売り場も、とってもかわいらしくて、食べるのもそこそこに、どれを買おうか物色しちゃいました(笑) 





 

旅行記は8へつづく


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ニューイングランドツアー日記 その6 ネイティック・モール







フルートランド・ミュージアム」の見学で、今日の予定は終了。

「オーチャード・ハウス」「フルートランド・ミュージアム」と、ルイザ・メイ・オルコット一家をたどる、充実した一日でした。 

ホテルへ戻り、少し休憩したあと、すぐそばのネイティック・モールへ。
19時に予約してある夕食のお店の場所をみんなで確認し、その後19時までフリータイムになりました。 

このモールの中にはスーパーもあるので、私はスーパーへ。 
ヴィーガンに近い食生活をしている私を気遣って、参加者さんがヴィーガンのコーナーを店員さんに聞いてくれました。

アメリカはヴィーガンへの気遣いがあるしおいしいので、ここでいろいろ買っていかれるといいですよ!って。なんて優しいんでしょう(;_:) 
確かに、オーガニックや、ベジタリアン、ヴィーガン、グルテンフリーへの気遣いは日本よりもずっと海外のほうが意識が高いですよね。 


こうして買ってきた食品いろいろ。 


夕食はまさにアメリカ~ンなメニューのお店で、ステーキやフィッシュ&チップスや、ハンバーガーなど、それぞれ好きなものをチョイス。

ヴィーガンに近い食事、といいながら、結局私は誘惑に負けてハンバーガー、食べてしまいました…。(たまには、ね。って、意思の弱い私(;^_^A) 


こちらは「アーノルド・パーマー」という名のアイスティー

アーノルド・パーマーって、有名なアメリカのプロゴルファーですよね(1929~2016)。傘のマークのついたブランドは今も健在です。 

その名がついたこのアイスティー、アイスティーとレモネードを半々で混ぜたものです。

アーノルド・パーマー氏が、ゴルフ場で、半々に混ぜたものをよくオーダーしてたことから、その名がついたそうです。

アメリカでは広く親しまれ、有名コーヒーチェーンの定番メニューにもなっているとか。

「アーノルド・パーマーってなに~??」って私たちが話し合っている間に、その場で参加者さんがパパっと検索してくれました!!
ありがとう!!ということで、ほぼ全員、アーノルド・パーマーを頼みました(笑) 

これがまたとってもおいしくて。はまっちゃいそうです♪ 

食後も、モールの閉まる時間まで、みなさんショッピングを楽しまれたようです。
素敵なお店がいっぱいありました~。 

今日はとっても天気がよかったですが、明日は雨のよう。そしてちょっと寒いという予報です。

明日はみなさんが楽しみにしている、ターシャ・テューダーの庭へ行く日。
晴れ女の方がたくさんいらっしゃるので、きっと大丈夫!と信じて、あとは天にお任せします…。 

旅行記は7へつづく


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2019年6月27日木曜日

ニューイングランドツアー日記 その5 フルートランド






次の目的地は「フルートランド・ミュージアム」です。 

その前に、撮影のみですが、ウォールデン湖に立ち寄ってもらいました。
ヘンリー・デーヴィッド・ソローの著書『ウォールデン 森の生活』の舞台です。

日本語では湖となっていますが、英語ではウォールデン・ポンド、池ですね。
でも、実際に見ると、池にしては大きいので湖、でいいのかな。 

実は『森の生活』は、ずっと前に読もうとはしたのですが、早い段階で挫折してしまいました…((+_+)) 面白さが感じられなくて…。

参加者さんのお一人が『森の生活』を持参されていました。その方もやはり最初が面白くなくて、ぱらぱらっと読み飛ばしたら、三章から面白く読めた、とおっしゃっていました。
せっかくこのツアーで舞台を見たので、今度こそ、読んでみようかと思います。 


 
フルートランド・ミュージアム」は、英語で書くとFruitlands Museum、そうフルーツの土地、です。
言葉はいいですが、現実には寒村で、フルーツがたわわに実るような豊かな場所にしようという”理想”を持ってオルコット一家はここで暮らし始めます。

1843年、ルイザはまだ10歳でした。

なぜこんなところに開拓者精神で住もうかと思ったのか。

先の日記に書いた「超越主義(トランセンデンタリズム)」が関係しています。 

ルイザの父エイモスは、エマーソンやソローらが中心となって提唱した、新しい「超越主義哲学」に共感し仲間になりました。
(ボストンの知識階級の間にも熱狂的に広まったんだそうです) 

超越主義とは、超簡単に言うと理想主義運動、ロマン主義運動です。 

暗くて、ガチガチに禁欲を貫くピューリタンや、理性的で冷たいユニたリアン教などに対抗し、明るい面を見て理想を追おうよ、と考えたようです。

神・自然との交流や、個人の無限の可能性といったものを追求、退屈で煩雑な日常を”超越”して、直感による真理をつかもうとした……ネットで調べれば調べるほどわからなくなる…(;'∀') 

つまりは、自然と一体になって直感を研ぎ澄まし、身体や心で神を感じることこそ大事、ってことでしょうか(ざっくり)。 





 
緑も多くて、天気もよくて、理想郷にふさわしい場所に見えますが、暮らすのは大変だったようです。

オルコット一家は、超越主義の人びととここで実験的に、共同で菜食主義の生活をして、着るもの、履くものも動物性由来のものは使わないなど、徹底していたそうです。

そうした暮らしは、一年で挫折します。
ルイザはここの冬の寒さで体をこわしました。 

ルイザの父たちよりも2年早い1841年に、やはり超越主義者たちが「ブルック・ファーム」という理想主義共同生活団農場をつくっていて、ナサニエル・ホーソーンがそこに参加しています。

それを知ってルイザの父も、続いたのでしょうか。
ルイザの父はブルック・ファームを見学に行っています。 

ブルック・ファームは1846年には財政難から崩壊。ルイザの父が1年で挫折したのに比べると続いたほうですが、理想郷を作るって、現実にはとても難しいですよね。

実際、ルイザの父も、理想は高いものの、経済的には家族を養っていけなかったわけですから、つきあわされた家族(特に小さかったルイザたち娘)は、つらかっただろうな、と感じます。 

超越主義者は、世の中から隔離されたユートピアを求めたり、社会から独立した個人の創造性を強調する傾向も強かったみたいで、ルイザたち家族は父の理想や哲学にふりまわされたともいえるでしょう。

エマーソンはこの実験生活がうまくいかないと最初からわかっていて忠告したようですが、ルイザの父はそれを振り切って実行したのでした。 

現在は、シェーカー教徒や、ネイティブ・アメリカンの暮らし、オルコット一家の暮らしなどがわかる、歴史博物館になっています。 


 
オルコット一家が暮らした農場の母屋は、下っていった、一番奥にあります。 





暖炉の上の肖像画は、ルイザの父エイモス・ブロンソン。 


1873年にルイザが新聞に発表した短篇『超越的なカラスムギ』。
このタイトルは”若気のあやまち”という意味を含んでいるらしいです。
ルイザはここフルートランズでの「質素な生活と高度な思考」の実験生活で経験したことを書いています(これ、邦訳はされていないですよね?)。 


肖像画はルイザ。壁紙、素敵ですよね、当時の壁紙の複製でしょうか。 


絵が上手なメイ(ルイザの妹)が使っていた水彩道具。 


ルイザの母がかぶっていた帽子。手前の手袋はルイザたち娘が使っていたもの。 

オルコット一家の様子や、当時の暮らしぶりがよくわかる、さすが!の展示内容でした。 

中の展示を見ていて、ふと、そういえば、明日訪ねることになっているターシャ・テューダーさんはまさに、オルコット一家がここに住んでいたのとほぼ同じ時代の、こういう生活を現代で実践していたんだよな~~と、感慨深く、ある意味尊敬の念を持ったのでした。 

 「オーチャード・ハウス」でご案内くださった喜久子さんから、現在やっている特別展に、普段見られないオルコット一家の展示品がありますから、ぜひ見てきてください、とご案内をいただきました。

特別展は、このフルートランズ・ミュージアムの設立者(土地の所有者)クララ・エンディコット・シアーズ(1863~1960:作家で、歴史的遺産や自然環境の保護者)の業績や、彼女が長年コレクションしたもの(普段は公開していない)を展示しています。

このミュージアムは女性が作ったものなんですね。
一般公開は1914年から。
(オルコットのオーチャード・ハウスの公開は1912年ですからその2年後ですね) 

シェーカー・ミュージアムは1919年、ネイティブ・アメリカン・ミュージアムは1929年、アートギャラリーは1939年にオープンさせています。

クララは20世紀初頭より、19世紀のほうが”more picturesque(より人目をひく、おもしろい、絵のように美しい)"な時期だったと語っていたそうです。 

ちょっと調べたら、クララは、ボストンのビーコン通り132番地で育ち、近所に住んでいたイザベラ・スチュアート・ガーデナーとも仲がよかったとか!!

ボストン美術館のそばに「イザベラ・スチュアート美術館」がありますが、その設立者ですね。
自分のコレクションしたものを美術館にしたイザベラと同様、クララのこれらのコレクションもまた素晴らしいもの(目利きだった)ということを、この特別展では伝えているようです。 





オルコット一家関係のものがここ。ブロンソンとウィリアム・ハリスの写真、ラルフ・ウォルド・エマーソンの胸像、オルコット姉妹の写真、ルイザとアンナ(姉)の髪の毛、母がフルートランドで編んだメイの靴下(コットンと麻。動物由来のものは使わなかったので)、コンコード哲学学校の講義券、南北戦争の兵士からルイザがもらったコイン、ヘンリー・デーヴィッド・ソローが作った鉛筆。 

喜久子さんも初めて見たものがあったとのことで、とても貴重なものを見る機会を得て、本当に私たちのツアーは幸運でした! 



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2019年6月26日水曜日

ニューイングランドツアー日記 その4コンコード





お昼は、1716年創業という、コンコードでも古い歴史を持つ宿屋「コンコード・コロニアル・イン」で。 








アメリカの国旗が、ああ、アメリカにいるんだな~~~という実感を盛り上げてくれます。何しろ、私、初アメリカ(笑) 

1775年に口火を切ったアメリカ独立戦争の時には、このコロニアル・インのオリジナルの建物の一部が、武器などの倉庫として使われたのだそうです。
毎年4月には独立戦争の格好をしたイベントをやっているらしい。 

お店や住居、下宿として使われるなどの歴史を経て(ヘンリー・ソローもここに住んでいたことがあるとか)、1889年に現在の形での営業が始まったそうです。
「コンコード・コロニアル・イン」という名前になったのは1900年。
それから100年以上、続いているのですね。 


レストランの建物を入ってすぐのラウンジ。
写真左のドアを入っていくと、ホテルの建物のほうに行けます。 
ホテル部分とレストラン部分の建物が、横長につながっているんです。

どの部分がオリジナルで、どの部分が新しいのかはわかりません…。
ただ、どの部分が古いかがわからないくらい、創業当時の面影を残すコロニアル様式に統一されているのはいい感じです♪ 

コロニアル様式とは、コロニアル(植民地の)材料や風土と、母国と建築様式が結合したもの。正面にポーチがつき、大きな窓やベランダがあって、アメリカではおもに木造、板を横に張った壁が特徴なんだそうです。(ざっくり) 


食事をいただいたお部屋。素敵です(≧▽≦) 
ここに住んでたこともあるソローの肖像画が飾ってありました。 


お料理もとてもおいしかったです。
デザートが卒倒しそうになるくらい甘く、アメリカの甘さの洗礼を受けた私たちでした(^^; 

 次の場所へ向かうまでの、数十分の空き時間に、ガイドさんにアンティークショップに行きたいとお願いし、コンコードの町をアンティークショップまで歩きました♪ 
古い建物が並ぶ、こじんまりとしたかわいらしい町並みです。 





アンティークショップは、”コンコード焼き”が目的でした。
”コンコード焼き”の本当の名前はデダム・ポッタリー(Dedham pottery:ボストンの南にあるデダムという町が発祥の陶器)といいます。

ボストン土産を検索していて見つけたこちらのサイトによると。 
少しグレーがかった乳白色のベースに藍色で模様が描かれ、表面が細かくひび割れているのが特徴(このひび割れが細かいほど高級なんだとか)。

1896年~1943年の間デダム・ポッタリー社が研究に研究を重ねた独自の製法で作り上げ、当時アメリカ全土で爆発的人気となったとか。 
残念ながら、デダム・ポッタリー社は1943年に閉鎖してしまいました。

デダム・ポッタリーのアンティークは、ボストン美術館にも展示されているそうです(後日ボストン美術館に行きましたが、見つけられず(;O;)) 

現在販売されているのはデダム・ポッタリーの商標を保持している、デダム歴史協会が承認したポッティング・シェド社が作っているレプリカですが、レプリカでもいいから旅の思い出に欲しいなと思ったのでした。 

皇后雅子様がハーバード大学に通っていらしたとき、このデダム・ポッタリーを購入され、結納のお返しにされたのだそうです、そのことはこちらのサイトに書いてあります。

ウサギの柄が特徴なのかと思いきや、いろいろな種類があるんですね。
アウトレット店に行ってみたくなりました。 

さて、ガイドさんに連れて行っていただいたそのアンティークショップに、果たして、私が欲しいなと思うデダム・ポッタリーはありました。
もちろん、レプリカのポッティング・シェド(ビンテージ)でしたのでお値段はそれほど高くはありません。

どれにしようかと迷っている最中、私はなんと、一つを落として割ってしまったのです(;_:) お店の方に、割ってしまったので買います、と言うと、「気にしないで。お代はいらないから」と優しく言ってくださいました。
「でも…払います」「本当にいいのよ」「でも…」を繰り返し、やっぱりこれは自分のふがいなさの記念に持って帰ろうと思い、最後には買わせていただきました。 





↑こちらは、割ってない(!)小物入れ。
この蓋が、すきまがあってぴたっと合っておらず、ぐらぐらして、蓋がぽろっと落ちて、もう一つのカップに落下したのでした…(;゚Д゚) 

下の写真の、右側の取っ手が見事に割れて取れてしまいました。他にも欠けたところが…(◎_◎;) もう、絶句です…。 





帰国してすぐに、ポンドとパテで修理しました。かなり粉々にくだけたので、こまごまと隙間があり、プロの方に修復してもらおうかとも思いましたが、自分で直してみました(修復初挑戦)。

もともと割れているような柄なのと、グレーっぽい色なのが幸いして(笑) 
パテもそれほど気になりません。気力が出たら、この上から似た色を塗ってみようかとも考えています。こういうのも旅の思い出になりますね(^^; 

ひび割れ模様のこのデダム・ポッタリーは、私のもろ好み、というわけではありませんが、素朴さと落ち着きがあり、何よりボストンツアーを忘れらないものにしてくれます。

私の一存でアンティークショップに立ち寄りましたが、ツアーの参加者さんたちも、何人かお気に入りを見つけてお嫁入りされていました。
今回の参加者さんは、今までの私のツアーにご参加くださった方々ばかりで、みなさん、アン、オルコットやターシャ、アンティーク好きも私と同じ。
アンティークショップに立ち寄るのも喜んで、ショッピングを楽しんでくださいました。
ありがたい限りです<(_ _)> 



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2019年6月25日火曜日

ニューイングランドツアー日記 その3オーチャードハウス


 
若草物語』の作者ルイザ・メイ・オルコットが住んだ「オーチャード・ハウス」のつづきです。


『若草物語』は、ルイザ自身の家族を描いた自伝的お話だということはあまりにも有名ですね。

オーチャード・ハウスでの暮らしも物語の基となっています。
ルイザ自身、4人姉妹で、ルイザはというと、物語のおてんばな次女ジョーです。
ジョーのようにルイザも自分の感情をコントロールできないことが悩みだったとか。

オーチャード・ハウスのソファには、「ごきげんうかがいクッション」が置かれていました。
長方形のクッションが縦に置かれていたらルイザの機嫌がよいことを示しているのだとか。 

聡明で優しい母もそのまま(物語以上にすばらしい母だった、とルイザ)。

家の中で劇を演じて楽しんだことも、ピアノが上手で内気なべスも、絵が得意な末っ子エイミーも、ルイザの家族や生活がそのまま投影されています。 

べスのモデルとなった妹エリザベスは、オーチャード・ハウスに引っ越す直前に猩紅熱のため、23歳の若さで亡くなってしまいました。
でも、オーチャード・ハウスには、エリザベスのピアノがあり、肖像画も飾ってあります。 

ルイザは1867年に、編集者から女の子のための本を書いてほしいと依頼され、自分の姉妹以外知っている女の子はほとんどいないからと、自分が体験した時代と、自身の家族を物語にしあげました。

物語がこびているところや気をてらっているところがなく、生き生きとしているのはそのためでしょう。

時代背景はかなり古いですが、今読んでもおもしろいんですよね。 

エイミーとして描かれた妹のメイは、作家として成功して得たルイザのお金で、絵の勉強をしにヨーロッパへ行かせてもらいました。

『若草物語』の初版の挿絵はメイによるものです。

体調がすぐれないルイザの気分がよくなるようにと、メイはルイザの部屋の壁にきれいな花を描いていますし、暖炉の棚にはフクロウ(知恵の象徴であり、夜更かしするルイザをフクロウに見立てたとも)を描きました(オーチャード・ハウスの内部は撮影が禁止なのでお見せできないのが残念)。 

家族愛が描かれた若草物語。ルイザも、愛する家族のために作品を描き、その収入を惜しげもなく家族のために使ったのでした。
自分の幸せより、家族を大事にしていたのです。 

のちに人手に渡ってしまったオーチャード・ハウス。
しかし、オーチャード・ハウスを博物館にしたいと、作家のハリエット・ルスロップが買い取り、有志が集まって協会が設立され、1912年に博物館として正式にオープンしました。 

オルコット家の偉業を伝えたい、という熱い思いが、今もボランティアとして働く多くの人々の中にも流れています。 

ご縁をえて、ボランティアでオーチャード・ハウスのガイドをされているミルズ喜久子さんに、ご案内をいただくことができました。
楽しそうにオルコット家のお話をしてくださる喜久子さん。
本当にオルコットが好きなんだな~~と、しみじみ感じられ、ツアーの参加者さんも目を輝かせてそのお話を聞かれていました(もちろん、私もです!)。 

オーチャード・ハウスのギフトショップでは、みんな興奮しながらいろいろとお買い物♪ 私は厳選して、厳選して… 


四人姉妹の付箋がかわいい!使うのがもったいない…。
右上のカードは、1915年版『若草物語』の挿画を担当したジェシー・ウィルコックス・スミスの絵。やっぱりいいなあ~。 


 
↑バスに乗る前に、歩いてすぐのところにある、ナサニエル・ホーソーンの家ウェイサイド」を見に行きました(外観だけ見たいとお願いしたの)。

実はホーソーンがこの家に住む前は、オルコット一家が住んでいたのです!
1845~1848年までの三年間、住んでいました。

ルイザはこの家(オルコット一家はヒルサイドと名前をつけていた)で、初めて自分の部屋をもらい、とても喜んでいます。

少女時代、この家での日々が最も幸せな時期だったと言っているほどです。
そんなこの家こそ、『若草物語』の真の舞台ですね。 

実は、『赤毛のアン』の作者モンゴメリも、オルコットが大好きでした。
『赤毛のアン』の原稿を受け入れ出版に応じたのは、実はカナダの出版社ではなく、ボストンの出版社でした。

赤毛のアンが大ヒットし、モンゴメリはボストンの出版社から招待を受け、1910年11月にボストンを訪れているんです。 
その時、モンゴメリは、このオーチャード・ハウス、そしてホーソーンの家(この家かな?別の家かな?)、エマーソンの家にも来ているんです。 

オーチャード・ハウスが博物館としてオープンしたのは1912年ですが、モンゴメリは1910年に訪ねた際、きっと内部も見学していると思います(コネクションを使って…(笑))。

そして、島以外で、私が住みたいと思った唯一の場所がコンコードだと、日記に書いているんです! 
モンゴメリが住みたいとまで思って気に入ったコンコード。
町の中心地(オーチャード・ハウスは町のはずれのほうにある)へ、お昼を取るため、移動です。 

 旅行記はその4へつづく


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